2013年12月13日金曜日

12/21(土)に哲学カフェを開催します。

哲学の知識は不要です。
どなたでもお気軽にご参加ください。

テーマ:「ロボットに倫理を教える」

産業ロボットが工場で多数稼動しており、自動運転カーが公道実験される時代になりました。
ロボットが急速に普及しつつある中、ロボットが倫理感を持つ必要はあるでしょうか。

今回は、ロボットの倫理感の必要性、必要な場合、どのようにしてロボットに倫理感を持たせることができるか、について話し合いたいと思います。

進行:花野

日時:12/21(土)18:00-20:00
※天候やスタッフの急病等で急遽中止する場合があります。
 中止する場合は、twitter、本ブログでできるだけ早く告知します。
 お出かけの前に、twitter、本ブログを再度確認いただくことをお勧めします。
場所:カフェ broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)
 
参加申し込みは以下のフォームからどうぞ。
お名前を書いたら、「送信」ボタンをクリックしてください。
(大体の人数を把握することが目的ですので、本名でなくてもかまいません)

1 件のコメント:

  1. 小金井哲学カフェのみなさま、
    12月21日の「ロボットに倫理を教える」に名古屋から参加させてもらった安田です。

    単に「プログラムをインストールする」というような意味ではなく、本当の意味で「教える」ことが可能な対象(というか、そういう意味で「教える」相手とみなすことが適当な対象)であるような「ロボット」----- SFに出てくるような、自らの意志や感情を、つまり「心」をもつような「ロボット」----- が本当に人工的な技術で生み出せるとなったときに、「私たち(人間)」とそういう「ロボット」の間の違いとは何だろう?そういう方向に脱線した議論が、正直一番楽しかったです。トークの大部分においてテーマ提案者の花野さんがもともとテーマに込めていた意図とは焦点がズレた議論になっていたのかもしれませんが、私としては非常に楽しい対話でした。花野さん、すいません。参加されていた皆様、ありがとうございました。

    当日、この話題のときに私の右隣にいた友人Wがチューリングテストという「人間」判別法(参考ウェブページ www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/AItopics3.html)の話を紹介しました。たしかそのもっと後で、私もついにたまらなくなって自分なりの答をアツく語ってしまいました。気づいた方もおられたかもしれませんが、あれはチューリングテストの一種の焼直しでした。大きく二段階に分けていうと、①「私たち」の本質は『お互いを「私たち」という同じ括りに入るような同属同士と見なしあうこと』にあるというアイデア、そして、②「私たち」という同属括りには同心円的に括りのゆるさが異なるさまざまな括り方がある、というアイデアです。言うなれば、私たち(「人間」のみならず、ある種の「心」がある、、、かのように振舞うすべての存在物たち)は常日頃からそうと意識もせずにお互いに(いろいろなレベル、タイプの)チューリングテストを、コンピュータのインターフェース越しでなく物理的な振る舞いや言語を通じてしかけ合い、そしてお互いのテストに(それぞれのレベル、タイプで)パスし合っている。もちろん、相手が期待通りのテストにパスするだろうことは無自覚に前提にしながら。そして、そういう期待が破られるたびに、認識を改定しながら。そうやって、お互いにお互いを「人間」や「犬」や「鳩」などなど、に「しあっている」。お互いにお互いをそうであると「確認しあっている」というよりは。そういう考え方です。(この説明ではいろんな語弊や問題がいっぱいありますが、細かい説明は端折ります。)

    佐土原さん左隣のYさんがこの考え方に一定の理解をしめしてくれたことに、大変感激しました。ただ、そのYさんが、この考え方を理解した上で『しかし私たちはだからと言って「ロボット」に人権を与えるなどして私たちと同列に扱うようにすべきではないと思う』と言われたことには、、、そういう感情は理解できるものの、すこしショックでした。その場で言い損ねたのですが、佐土原さんの右隣のTさんが言っていた『私たち自身が実は「ロボット」なのかもしれない』という言葉を、この時のYさんに向けてもう一度発すればよかった、、、と、後で思いました。Yさん、もしかしたらYさんご自身が「ロボット」かもしれません。その場合、『「ロボット」を「私たち」と同列に扱うべきでない』という意見をもはやYさんは主張できません。その場合、Yさんの「私たち」は「人間」という意味にはなりえませんから。

    「世界のルール」を決めることが出来る「ちから」のある「私たち」が、当の「私たち自身」のことを『「私たち」だから』という理由で特別扱いするのは、倫理的に正しくないのではないでしょうか?たぶん終盤では、花野さんやTさん、私の友人Wなどは、そんなことを言っていたのではないかと思うのですが。もし、そういうことを全て承知のうえであえてあの主張をされていたのなら、Yさんは、たとえば今のアメリカがもし「世界のルール」を自分たちの都合のいいように決めるようなことをしはじめたら、どのような倫理的原則にもとづいてそれを糾弾できるでしょうか。あるいは、(アメリカでない)「私たち」にちからがない以上それもやむを得ない、ちからのあるアメリカがそういうことをすることには何も倫理的な問題を見出さない、というお立場でしょうか。。。

    (Yさんに対して怒りの感情などはまったくありません。念のため。あくまで、哲学対話の問いです。)

    この質問を遅ればせながらYさんに投げかけたく、つい、長くコメントしてしまいました。。。失礼しました。

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